180年の沈黙、破られる。
葛飾北斎、未発表の原画103点、待望の書籍化。
北斎は、前例のない「世界ビジュアル大百科事典」に挑戦していた。
だが何らかの事情で出版は中止され、精緻な版下絵だけが残る。
貴重な版下絵が、原寸大・4色印刷で完全再現――。
葛飾北斎の今まで発表されることがなかった版下絵103点が、ついに日本で出版されることになりました。この版下絵は19世紀後半に国外に流出し、長い間、パリの著名な日本美術収集家の個人コレクションとして保管されていたものです。この度、イギリスの大英博物館が入手し、2021年9月30日~2022年1月30日まで、この103点の版下絵を展示する美術展「Hokusai : The Great Picture Book of Everything」が開催され、コロナ禍にもかかわらず大盛況のうちに終了しました。本書はその美術展の公式図録を翻訳出版するものです。
版下絵とは、版画にするための「原画」のことです。本来ならば版木に彫られた段階で消滅するはずでしたが、何らかの事情で計画が頓挫し、その結果、103点は残り、180年の時を越えて、わたしたちの目の前に出現することとなりました。
北斎が暮らし活動した江戸は、人口100万人以上を誇る世界的な大都市でした。寺小屋などの初等教育制度が普及したことで、庶民や子どもまでもが漢字を読み書きすることができ、識字率の高さは世界有数です。江戸にはいくつもの版元(出版社)が存在し、互いに競争し合い、幅広いジャンルの新刊を流通させて読者の興味をひいていました。北斎が亡くなって約20年後のフランスでは、「印象派」の画家が登場します。ルノワールやモネなどの絵画を購入したのは、主にブルジョワジーという新しく誕生した裕福な市民ですが、日本は富裕層だけでなく、あらゆる階層の人々が浮世絵などを購入して楽しんでいたのです。
「万物(ばんもつ)絵本(えほん)大全(だいぜん)」とは、絵入百科事典のことで、北斎よりも前に『訓蒙(きんもう)図彙(ずい)』『万物(ばんもつ)絵本(えほん)大全(だいぜん)調法記(ちようほうき)』などの事典が出版されていました。これらは、大人と子どもが家庭学習の場で一緒に活用したり、俳諧を楽しむ人々が季節の花木を調べるのに使ったり、アマチュア絵師のためのお手本として使われました。今回翻訳出版される版下絵103点も、このような事典として描かれたものです。しかし北斎がやろうとしたのは、先人たちが取り組んだ百科事典を単にリメイクすることではありませんでした。
そもそも絵入百科事典が扱う伝統的な主題は、天体現象、地理、人物、衣服、動物、魚、虫、草花など17部門あると言われています。北斎はさらに、「インド(仏教)」と「中国」を主題に選びました。仏教の諸尊、釈迦の同時代人や弟子たちの逸話(26点)、中国文明の祖として崇拝される神話の神々、皇帝、中国の軍事・宗教・文化・伝説上の重要な人物、俗信や習慣など(39点)を付け加えたのです。ここまでフォローしている絵入百科事典は、当時は存在していませんでした。
本書の著者、大英博物館の名誉研究員であるティモシー・クラーク氏も、『万物(ばんもつ)絵本(えほん)大全(だいぜん)』のための版下絵103点の再発見が重要視されるのは、何よりも「古代インドや中国の歴史を探求し、伝統的な絵入百科事典の慣例的な主題の領域を越えようとする、絵師の大望をも物語っているからだ」と語っています。
本書には、ティモシー・クラーク氏による、北斎の画家人生における『万物(ばんもつ)絵本(えほん)大全(だいぜん)』という仕事の重要性についての論考と全作品の解説が収録されています。版下絵は、大英博物館より提供された高精細のデータを使い、原寸大で忠実に再現しました。さらに日本語版では、北斎研究者の安原明夫氏のご協力をいただき、版下絵の中にある画中文字(本書では「詞書(ことばがき)」)の翻刻と読み下し文を新たに付け加えました。巻末には「神仏名に関する日本語・サンスクリット語の対照表」も掲載されています。